東京通信

ファッション、カルチャー

市場から直接評価される環境じゃなきゃ成長とかあんまり意味ないと思ってしまう

成長ってなんだよ議論はかなり煮詰まってきている感が個人的にはあるんだけど、最近思ったことを書き連ねてみようと思う。

タイトルにある通り、市場から評価される環境とはスポーツ選手とかフリーランスの人、経営者とかそういう人を取り巻いている環境のこと。今僕がいる環境は会社員として会社に雇用してもらっている。一応上場しているし、会社の業績は株式市場から評価を受けることになるんだけど、それは社長とか役員の立場であって普通の社員は上司から評価を受ける。サッカー選手がゴールを多く決めたりミュージシャンがヒットを出したり、そういったわかりやすい評価の基準というのが我々にはない。仕事ができるとかできないという要素ももちろん大きいんだけど、評価の客観性がいまいちパッとしないことが多い。人間が人間を評価するんだから評価の要素が有機的すぎる。ものすごい仕事ができる人でも上司と馬が合わなきゃ評価してもらえないことだってある。

だから、サッカー選手になってビッグクラブに移籍してワールドカップで優勝したいと夢を語るサッカー少年は沢山いるけど、絶対に出世して社長になる!と意気込んで入社する新入社員はあまり多くないだろう。というか馬鹿にされるはず。

それなのに成長しろ!とか、入社してから数年の努力の差で周りとどんどん差がつくからな!みたいなことを散々言われる。成長した先に一体何が待っているんだ?出世?理想の社会人像?自己実現?(ブルブル・・・)と思ったり思わなかったり。。

個人的には、やみくもに成長しろとか言われるなら出世するために色んな社内の人と飲みに行って人脈広めて来い!と言われた方がよっぽどスッキリする。(極論だけど)

市場から直接評価される環境なら成長するのはまあ必要不可欠かなと思う。陸上とか水泳の選手なんかはタイムだけが評価の基準であり、コンマ何秒の世界で“成長”を目指して努力している。逆にこれ以上“成長”するのは無理と判断したら引退するんじゃないかとも思う。(ベテランのスポーツ選手なんかは晩年に成績が下がっていくわけだけど、向上心がなくなったらもう続けていくのは相当困難だろう。)まあ食っていけるのに困らないくらい稼げれば十分と考える自営業者は世の中に多いかもしれないけれど、そんな甘い世界じゃないだろうし会社員より何倍も危機感は強いと思う。

ちょっと視点を変えてみる。待ってました!(?)大学生にとっての成長とは?

どの時代にも意識の高い系大学生は沢山いたんだろうけど、概して彼らは成長という言葉が大好きだ。一種の呪文なんじゃないかってくらいに。もう僕は大学を卒業してしまったんだけど、それについても最近考えてみた。

大学ってのはある意味特殊な環境だと思う。小中学校だったら足が速いとか高校なら偏差値が高いとかスポーツができるとか、大学にはヒエラルキーを決定づけるわかりやすい基準があまりない。同じ学内での成績のいい悪いはあまり関係なくなり、半強制的な部活動へのコミットもない。だからリア充自慢したり、意識高い団体を立ち上げたり、イベントを企画したりする人が現れる。(まあごく一部なんだけど。)これという評価(される)基準がなくなるわけだからあの手この手で皆がもがく。もがきながら「今年一年色んな人に出会えた!ホントに成長できた一年だった!」とSNSに投稿してしまう。 そしてコイツにとっての成長って何なんだよ!と思ってしまう。でも大学生にとっての市場って学問とかリア充とか部活・サークルとかバイトとか趣味とか、一応カテゴライズはできる。だから学問市場に身を置いて努力をしている大学生だったら研究が進歩すれば成長と言えるし、非リア充からリア充に転身できたならそれは大きな成長である。

要するに、会社員も大学生も今置かれている市場(環境)をしっかり見極めるべきだということ。成長という言葉は場合分けして使うべきだ。成長を安売りしていたら本当の意味での“成長”なんてできないと思う。

 

まあかく言う自分も就活のエントリーシートに、「御社で成長していきたいと考えています」ってテンプレのごとく使ってたけど・・・笑

 

君を成長させる言葉

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成長痛 (恋するカラダBoys)

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